大河内 正敏  おおこうち まさとし  1878.12.6 東京 生  1952.8.29 東京 没
 工学社・科学者・工学博士
大多喜藩主の長男として東京芝に生れる。幼少時代、大正天皇の御学友。一高を経て1903年東大造兵学科卒。ドイツ・オーストリアに留学。後東大造兵学科教授。1921〜45年理研所長。自由な雰囲気を持つ研究室制度を導入、国際的研究機関に成長させ、発明・発見を工業化するための会社を設立。60数社を傘下に収めた科学主義工業を実現した。1938年来貴族院議員。戦後も経営創造の新思想は生かされ、SONYや本多技研工業などの経営者を通じて実現した。
櫻井錠二との関連
 [理化学研究所]
幕末の不平等条約などで遅れを取った日本は欧米諸国と対等の地位を保つため、化学技術の導入が不可欠となった。明治新政府は海外から教育指導者(いわゆるお雇い外国人)を日本に招き更進生等旧藩から選ばれた限られた人物に教育をし、国費で海外に留学させ4・5年(後は2年程)で帰国後殆どが東大の教授となり多くの有能な人材の育成に成功した。所が日本には実験、研究する施設も経済的援助もなく化学技術の実用化には個人レベルでは限界があることを訴えた櫻井、高峰譲吉等が財界の渋沢栄一を説得、我国最初の本格的化学技術(無機、有機化学、生物化学、農薬肥料、原子核、物姓物理、応用物理、基礎工学等)総合的な研究施設が1917年に財団法人として創立された。初代理事長に渋沢栄一、初代所長菊池大麓、副所長に櫻井錠二がなり、三代目の大河内所長は研究分野を拡張、研究室制を敷き研究成果を利用、理研コンツェルンと言われる黄金期を迎えた。60数社を企業化し、新技術の事業集団となったが戦後解体され、特殊法人をへて現在は独立行政法人。
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